確率
From:眞田
多くの中学校で2年生の3学期に確率を習います。
この塾でも確率の問題を解いてもらっていますが、ある子が問題文に「同様に確からしい」とペンで書き加えていました。
そうなんですよね。場合の数の割合として確率を求める際には、「同様に確からしい」という前提が必要なのです。さいころをふって、1の目が出ることも、2の目が出ることも、3の目が出ることも、4の目が出ることも、5の目が出ることも、6の目が出ることも、同じ程度であるときに確率を求めることができるのです。
1の目が出る確率は1/6とは限りません。さいころの重心が大きくずれていたら、1の目が1/5くらいの確率で出ることもあるかもしれません。
だから、「同様に確からしい」という前提が必要なのです。中学の問題文にはこの一文が書いてないことがあったりするので、これを付け加えた子は本当に素晴らしいですし、そんなことどうでもいいじゃんと思われるようなことを大切にしてくれていることに嬉しくなりました。(でも、こういった理屈臭いことは、対人関係では嫌われるので注意が必要です)
私は普段から、確率的思考を重視しています。
なぜなら、確率的に優位性があるものは「正しい」。優位性のないものは「間違っている」と判断できると考えているからです。
私は、子供の頃から、「正しい人間でありたい」「正しい判断ができるようになりたい」と思っていました。よく「素直になって、人の意見に耳を傾けるようにしなさい」と色々な大人に言われました。
「確かにその通りだ。自分の意見に固執して頑固な人間になってはいけない。自分よがりなだめ人間になってしまう。柔軟に人の意見を取り入れるべきだ」そういったことを純粋な私は思っていたのです。
しかし、次第に、「これって正しい方針なのだろうか・・・」と疑問に思うようになってきました。常に正しい判断ができると思っていた大人のアドバイスや意見でも「いや、さすがにそれは違うんじゃないかな」と思うこともあったので(以前のブログにも書きましたが、「大人は常に正しい」という洗脳を解いてくれたのは母親でした)。
「人の意見を聞くべし、でやっていたら、もし、その人の意見が間違っていたら、自分は間違った意見を採用することになってしまう。やはり大事なのは人の意見を聞くことではなくて、正しい意見を採用することではないか」と思うようになりました。
そしたら、次に、何が正しくて、何が間違っているのかを考えていくことになります。
でもね、当たり前のことですが、そんな簡単に「正しい」「間違っている」を判断できるものではないのです。「正しい」「間違っている」を容易に判断できるのであれば、人生を成功させることは簡単です。
「正しい」「間違っている」の判断基準は簡単に作れるものではないですが、でも、「できないと諦めるのではなく、作らなくてはいけない!!」と思いました。自分なりの基準が作れなければ、自分の人生を歩むことはできないと思ったのです。
絶対的な基準は作れないので、曖昧部分を残した「~の傾向がある」ような感じで基準を作っていきました。これについては他人に公開して判断を仰ぐようなものではないので、ここでは全部言わないですが、確率は判断基準として採用しています。
確率的に優位性のあるもの、期待値に優位性があるもの、これらに基づく判断は「正しい」としてよいと考えました。私にとっては、正しいのか、間違っているのかよくわからない他人の意見よりも、確率による判断基準を採用することはしっくりくるものでした。
そうはいっても、人生の出来事をすべて数字で把握することはできませんし、厳密な数学としての確率を出せるものでもありません。それならば、どう「確率的」に考えていくのかという話になるのですが・・・また長くなるのでここで止めておきますね。
学校で学ぶことは役立たない、と言われたりします。確かに、小中高と化学や物理を学んで、冷蔵庫や車など日常で使えるマシンを作れないなんて、学んでいることがずれているのではないかと思うこともありますが、私にとって確率は、学校で学ぶことができてよかったと思う学問の一つです。