「わかる」とは何か

From:眞田

「うちの子、〇〇がわからないと言っているので、教えてやってもらえますでしょうか?」

とお母さんから言われることはよくあります。

このとき、「お母さんの言う『わかる』とはどういう状態を指すのだろう。何をもって『わかる』とするのか、もっと明確な定義が欲しいな」と心の中で思っています。

でも、「わかりました。では、『わかる』ようになることを目的としますので、お母さんの考える『わかる』とはどういう状態を指すのか、具体的に教えてもらえますでしょうか」と返すのは、一般的なコミュニケーションからは外れていて、相手に違和感を与える可能性があるのは分かっているので、言いません。

「わかりました。今度教えますね」と応じます。そしてわからない問題を教えて、本人が「わかった」と言ったら、とりあえずは目的到達としています。

「わかる」とは何か。

勉強を教えていると常にこの課題について考えますし、「わかる」状態に持っていくことが非常に難しいことを実感させられます。私自身「わかっている」と胸を張って言い切れません。「この点については考えていなかったなあ。わかっていなかったなあ」と思うことはよくあります。

当たり前ですが、本人が「わかった」と言ったら「わかった」といえるのかといったら、そんなことありません。考えてないが故に、自分なりの検討をしていないが故に、「わかった」と思っていることがよくあります。

説明してもらって、その説明が正しかったら、わかっている可能性が高いですが、これも、どうかわかりません。その理屈の中に勝手な自分独自の考えが隠れていることがあります。

でもここは確認が難しく、とりあえず「わかっている」と判断することになります。積み上げた理論がおかしい場合はテストなどの答案に違和感が出てきたりするので、このとき「これはしっかり理解できていないのではないか」と疑って、探っていくことになります。「この問題ができているのに、この問題ができていない。これはおかしい」みたいなそんな違和感があることがあるのです。

その場合は、「わかっていない」ことが判明するのにかなり時間がかかります。一回くらいのミスなら単純なミス、勘違いの可能性が高い。何回もミスが繰り返されることで「あれ?なんかおかしい」ときづきます。だから、たくさん勉強に向かってプリントを提出してくれないとこの違和感に気づくこともありません。

あとですね、本当にわかりたい、と思っている子は少ないです。口では言いますよ。わかりたい、理解したい、点が取れるようになりたいって。でもそれ以上に、自分がわかっていないことを悟られることを嫌がります。

また、本当に理解しようと思ったら、自分でしっかり考えて、自分と対話して、そういったことが必要になりますが、考えるのなんて面倒くさい、疲れる、そちらの気持ちが強い子が多いのです。

そんな回りくどいこといいから、簡単に教えろよ、そんな感じです。もちろん、みんなこんなこと言わないですが、そんな空気感を感じたりします。

だから人を見て教え方を変える、といことになりますが、それでいいと思っています。

野球やっている子がみんなプロを目指しているかといったら全然そんなことありません。プロを目指していないのにプロに行くための練習をやらせたら大変すぎて野球をやりたくなくなってしまいます。

プロを目指す人、甲子園を目指す人、県大会ベスト8を目指す人、趣味程度に楽しみたい人、それぞれの目標に応じて、知識や考え方を与えられたらそれでいいのではないかと思っています。