わかりえないし、なるようにしかならない 4

From : 眞田

・子供には、勉強しなさいとは1回も言ったことがない。本人のやりたいようにのびのび自由にさせていて、超有名大学に進学した。

・子供にみっちり塾に通わせて、家でも参考書を与えたり、たくさん指示して勉強させた。勉強漬けにさせたが、レベルの高い大学に進学できなかった。

こういった話は誰もが一度は耳にするはずです。そして教育に携わる仕事をしている人は、いったいどういうことだろうと考えるところです。

私は中学か高校のときにはこの種のことを聞いていて、当時から教育に強い興味を持っていたので、ちょくちょく考えていた記憶があります。大人になっても考えました。

・自由でのびのび教育で高学歴、これは一般的に優位性があると言えるのだろうか。

・特別な例を取り上げただけだろうか。

・本当に自由にさせてしまったらそれは教育ではなくて放置である。自由にさせていると言いながらもどこかには手を加えているはずだ。どの部分に手を加えたのだろうか。

・努力は大切だが、無理矢理させた努力は成果がでないのだろうか。

・努力量より大切なことがあるのだろうか。

・自由にさせたら、レベルの低い子供は安きに流れるのではないだろうか。

そもそも、正しいのかどうかすらもわからない、前提条件もわからないのですから、考えるべきことはたくさん出てきます。

色々なことを経験して、思索して、実行して、試してみて、私は今は結論を持っています。

この話の中で私が重要であると思った要素があるのですが、それは物理法則のように一般的に広く適用されうるものだと思ったので、数値化できる別のことに適用してみたところ、一方は数値がよくなることが多い、もう一方は数値がよくなるどころか悪化していくことが多い、という結果が出たので、私の中では確信を持って答えを出しています。

しかし、確信があるからといって「じゃあ、みんなを伸ばしてくれ」と言われてもそれはできないですし、「お前が考えたやり方はそんなに理が通っているのか。それならそれを説明して納得させろ」といわれてもできません。

確信といっても100%の再現性があるわけでもないし、絶対に正しいと言い切れるわけでもない。でも確信をもって、自分の思索に依拠して、私は判断していきます。

ただ、自分の無謬性は肯定しないですし、反証が自分の中で見つかったら結論は変わります。