原因行為

From:眞田

今、世界で大変なことが起こっていて、これ以上戦火が拡大しないでくれと不安な気持ちでいます。

テレビを見ていたら、日本のキリスト教会の様子が映し出されていました。日本人やいろいろな国籍の人々が平和に祈りを捧げている様子がそこにはありました。

その教会にはウクライナ人の方もいて、こんなことを言っていました。「祈りを捧げるより、物資を送ってほしい。とにかく様々な物資が不足しているんだ」と。

私はキリスト教徒がこんなこと言うことに驚いたとともに、その通りだと思いました。

こういった話は宗教観も入ってくるので、言いづらい感じもあるのですが、私は他人の宗教観を否定するつもりは一切ありませんし、あくまで私が個人的に思っていることとして、書きたいと思います。

私は、現実を変えたいのであれば、どうしたら理想の状態に辿り着けるのか、原因行為について思索し、実行する必要があると思っています。私の考えでは、祈りを捧げることは原因行為ではありません。

昔は、今みたいに気軽にお医者さんにかかって薬をもらうことはできなかったので、子供が病気になったら、お百度参りをしていました。お母さんが毎日神社仏閣に子供の病気の治癒をお祈りするのです(詳しいことは知りません)。

そんな子を想う親の気持ちは尊いですし、何とか治してあげたい親の気持ちは痛いほどよくわかるのですが、私はお母さんの行動を肯定することはできません。

本当に治したいのであれば、お参りするのではなく、内職やパートして(当時、そんなものがあるのかどうか知りませんが)お金を稼ぐべきです。何とかお金を稼ぐ方法を考えて、お金を作るべきです。そしてお医者さんに見てもらって、少しでもいいから薬を買ってあげて子供に与えてあげるべきです。

昔は今ほど科学が発達しておらず、病気の因果関係もわかっていなかったから、偉大な何かに祈りを捧げることで現状を好転させようと考えることは理解はできないことはないですが、私はお母さんの行為が間違っていると考えます。

学力を上げたかったら、勉強する。野球が上手になりたかったら、野球の練習をする。素敵な恋人が欲しかったら、自分の魅力を高める努力をする。祈りを捧げるより、こちらの方が大切です。

エレベータで屋上に行きたかったら、「↑」のボタンを押せばいいのです。「神様、エレベータが来ますように」なんて祈るのはおかしい。祈ることではなく、ボタンを押すことが原因行為になります。

私が気合や根性などの精神論を嫌うのは、この原因行為から目を背ける可能性があるからです。「がむしゃらに頑張る」「死ぬ気でやる」「可能性は無限大」「努力は裏切らない」などの言葉からは、私は知性を感じられません。「頑張ること自体」ではなくて、「何を頑張るか」の方が10000倍大事です。

成果を出すためにはどんな努力をするのか、ライバルと差をつけるためにどんな練習をするべきか、気合や根性で頑張るのではなくて、常に冷静になって、この部分に意識を向けて考えていかなくてはなりません。

そうしないと、苦しみが拡大していくだけで、求めるところには一向に辿り着けないことになりかねないと思うのですが、いかがでしょうか。