やる気の話


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From:眞田

 

今回はやる気について、お話をしてみようと思います。

 

ほとんどの子が、「勉強しなくてはいけないことはわかっているけど、やる気がでないんだよね」と悩みを抱えています。やる気を出すために高校生は「E判定からの大逆転」みたいな本を読んで、「よし、俺だってできる!」と気分だけ高めて、結局、何もしない、ってことがよくあります(笑)

 

やる気があるとか、ないとか、やる気を出せとか、やる気がないなら帰れとか、言語表現で「やる気」を使うことはよくありますが、やる気が「ある」「ない」はどうやって判断するのでしょうか。

モチベーション管理という言葉もあります。管理には「一定に保つ」「基準を保つ」そんな意味合いがあると思いますが、そうであるならば、やる気のあるなし(もしくは大小)を計測する基準がなくては、管理のしようがないと私は考えます。

 

やる気って何でしょうね。

 

 

 

少し話を変えます。

子供のほとんどは毎日学校に行きます。大人のほとんどが毎日会社に行って仕事をします。

 

見る人が見たら、

「毎日毎日休まず学校にいって偉いね。自分だったら家でゲームしていた方が楽しいな。楽しいゲームをしないで毎日学校に通って、さらに土日も部活に参加していて、本当に学校教育にやる気があるんだね」と判断するかもしれません。

「責任感を持って毎日仕事に行って偉いね。自分だったらそんなに働けないよ。仕事にパッションを持って臨んでいるんだね」と判断するかもしれません。

 

行動の外形からこのような判断をすることは、相当といいますか、それほどずれたものではないですよね。しかし、自分の感覚としては全くもって違う。「いや、やる気なんて全然ないって!」と思うはずです。

 

 

私は高校生の頃、毎日ではありませんが朝の6時から勉強したりしていました。授業と授業の合間の10分間の休憩中も、「よし、勉強するチャンスだ」とすぐに参考書などを開いて勉強したりしていました。少しでも自由時間が見つかれば、勉強していました。

この行動から「やる気があったんだね」と思う人が多いと思います。しかし、当の本人は、やる気なんかないし、参考書開いてもわくわくしないし、勉強しないで大学合格するなら勉強したくない、と思っていました(とはいいつつも、自分なりの【勉強】の定義が定まり、それに基づいた評価によって、伸びている感覚、昨日よりも今日の方が成長している実感があったので、多少のわくわく感はあったような気がします。)。

 

 

私たちは他人のやる気のあるなしを、行動の外形から判断しています。でも積極的に行動しているからといって、その行動の原因部分は「やりたい」「わくわく」にあるとは限りません。むしろ、周りの事象をよく観察してみると、「やらざるを得ない」に起因していることが多いことに気づくと思います。

別に、学校に行きたくないから行かない、という選択はできるのです。仕事をしたくないからやらない、という選択もできるのです。でもその選択をすることのデメリットは非常に大きい。「だから、やる」選択をしているだけです。

「やりたい」「わくわく」の強い欲求はある領域に限られています。動物としての本能的欲求とか中毒性のあるものとか(だから私は中毒性のあるものは警戒しています。自分の判断を狂わせるからです)。このあたりは自分なりに考えてみるといいですね。

 

だから、自分のやる気について考えるときに、「やりたい」「わくわく」そういった状態を欲求することは現実的ではないと認識することが大切です。「勉強が楽しくなるといいな」と欲求したとしてもその状態は実現される可能性が極めて低いので、そもそも目指さない。現実的ではないことを現実化しようとすると泥沼にはまります。

 

じゃあどうするかといったら、もうすでに答えは出ていますが、「やらざるを得ないと自分が感じる状況」を設計するのです。

 

つづく