期待コントロール 1


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From:眞田

 

私は子供の頃から、そのステージにおける課題というか悩みというか、そういったものを見つけて(見つけて、というよりは自然と出てくるといった方が適切かもしれない)、毎晩、子供の頃から不眠症の傾向があったので、考えていました。

 

何について考えていたのかは、今でも明確に覚えていますが、そのうちの1つは、「果たして自分は、立派な大人になれるのだろうか」です。これは小学生の私のメインテーマでした。

 

 

「今の自分は人として全然できていない。すぐに泣くし、すぐに感情的になるし、人に優しくすることができないし、バッタやクモに爆竹つけて火をつけることに楽しさを感じてしまう。人としてのレベルがかなり低い。

大人=立派な人、できた人である。このまま月日を重ねれば、大人として認定される年齢にはなるが、そのときに自分は中身が伴っているだろうか。大人と呼べる相応しい人間になれるのだろうか。

将来のことはわからないが、今の自分にはそれは不可能に感じてしまう。このままではまずい。いったい、何をしたらいいのだろう。何を考えたらいいのだろう。どうする、俺。何か対策を考えろ。人として進化するんだ」

こんなことを真っ暗な天井をみながら、考えていました。もちろん、当時は子供なのでこんな言語表現は頭の中で回していないですよ。

 

そんな私は、大人と呼ばれる歳にとっくの昔になっています。

子供の時の自分と比べて、進化、改善したところはありますが、私は不完全な大人になっただけで、当時の私の課題は解消されていません。

 

ただ、大人になってわかったことがあります。

それは、子供の頃に抱いていた「大人=立派な人間」これが間違っていたということです。周りを見渡しても「できた人」なんて全然いません。いちいち知り合った人に聞いたことはありませんが、大人のほとんどが「自分ってまだまだダメだなあ」と思いながら生きているだろうと思います。聞いたことないから推測に過ぎませんが。

 

少し考えればわかることですが、不完全な子供が成長して大人と呼べる歳になったら、不完全な大人になるだけです。でも、私が子供だった頃、大人は立派な人のふりをしていましたし、私に見抜く力もなかったので、ピュアな私は気づきませんでした。

「立派な人のふり」と言ってしまうと、私たち大人が気の毒ですね。ふりというか、不完全ながらも大人としての役割を果たそうと頑張っていた、という方が正確でしょうか。

 

 

だから、大人は完璧な人間ではないのだから、聖人としての振舞い、言動を期待しない方がいいです。期待したとしてもその期待は裏切られることになります。

大人はたいしたことない。大人であろうとだめなやつはだめである。それを認識するために、こんな動画はいかがでしょうか。見るに堪えない動画なので見なくてもいいです。

気分が悪くなる動画

 

「いじめは絶対にダメ」「いじめは卑劣な行為なんだよ」普段はすました顔して、悟った顔して、そう言っている大人たちが、「死ね死ね」と嬉々としています。

 

私はこれはとても気分が悪いし、子供と一緒に野球を観戦していたとしたら「いいか。こいつらがやっていることをよく見ておきなさい。反面教師にするんだぞ」と言うと思います。

でも、そこまでこの人たち非難する気持ちもありません。なぜなら、私の中にも他人を攻撃しようとするカタマリが心にあるのが分かっているからです。理性で押さえているだけ。確実にあるのを感じている。死ね死ねと言っているこの人たちと何が違うのだろうか。イエス様の「想像は姦淫である」この言葉が思い出されます。

 

で、ここからが本題なのですが、また次回にします。ちょっと書いていたら、言いたいことがたくさん出てきたので、9000万回くらいのシリーズものになるかもしれません。